荒波スイマー

毎日の些細な出来事に振り回されるオフィスレディの日常

備忘録

複雑なことは、誰も覚えられない。

みんなが使うものだから、もっと簡単に理解できる必要がある。

伝えることは簡単に、明瞭に

他の情報と相違がないように。

従うのは上位情報。その上で不利益がない程度の類推解釈、拡大解釈。

 

ていうか、わたしが頭悪いんだから複雑なことを理解するのなんて無理よ。

 

最近感じたことシリーズ

単純作業は苦手

面白いことを考えるのは楽しい

でもプレッシャーに弱い

ノルマという言葉はとても嫌い

何でも気ままに思いのままにやりたい

お付き合いの飲み会は嫌い

気を遣う飲み会はもっと嫌い

気の合う仲間とのんびり飲みたい

理不尽なことは割と許せない

理不尽なことを隠すために理不尽なことで帳尻合わせようとする人嫌い

何でも人任せにする人嫌い

どうしてわたしばっかり、って感じる

自分から動いてみろよと思う

会社は嫌いだ

この会社のために頑張る意義がない

今は自分の未来のライブイベントが気になる

別に今の仕事に興味はない

 

ワガママなことをたくさん言っている

わかっている

でも本音だ、仕方ない

 

気持ちに折り合いをつけて

納得がいかないことがあった。

 

わたしの能力不足で不満に思う部分はあるだろう。わたしだってもどかしい。

でも。あんな言い方しなくたっていいじゃないか。まるでわたしのやる気を削ぐような。能力不足のお前にそこまで期待してない、っていうような。

そりゃ分不相応な目標だったかもしれないけど。でもそうやって高いとこ目指さないとだめだから、って思い故なのに。

そうやって頑張ったところで、素っ頓狂な意見に潰されたりするんだけどさ。

第一、本当なら期待することとかレベル感って伝えられるものじゃないの?そんな話一度も出たことないのに。

 

とにかく今の職場は全く合わない。きらい

わたしという人間 そのに

わたしは小学生から中学生ごろの自分の写真が大嫌いだ。

今よりも太っていたし、髪は癖毛で垢抜けず。今は化粧で誤魔化しているが、そのままの顔は見ていられない。おまけに身長が高く、悪目立ちしてしまっていた。

それでも、多分わたしという人間の意味を見出したくて一生懸命に他人に認められようとしていた気がする。「かわいい女の子」や「愛される女の子」は絶対に叶わない夢みたいなもので、何より誰からも求められていなかった。だから、人より「強いこと」「できること」で意味を見出そうとしていた。

だけれど、残念ながらわたしの頭は平凡以下で、結局何にも勝てないただの間抜けな中学生になってしまった。ちなみに、そんな程度の頭なのに、何か学習が周りより置いていかれることがあると恥ずかしくて泣きたくなる。

そんな中身が嫌という程外見にも現れていて、その頃の写真は最早直視できない。

 

文字通り、内面から滲み出た不細工さが前面に出ているからだ。

 

高校生や大学生になると、手の届く範囲で身なりに気をつけるようになった。しかし内面は大きく変わらない。

 

自分が認められる方法が全くわからなかった。

 

家族関係はあまりいいものではなく、自分の生まれた意味を考えさせられる瞬間もあった。また、人とのコミュニケーションは下手くそで大体自分で関係性を壊していく。

それでも誰かに認めて欲しい。誰かに大切だと言って欲しい。ずっとそんなことを考えて過ごしていた。もちろん上手くいくことはないのだけれど。

 

わたしは、わたしのことが嫌いだった。

 

過去形にしているのは、ある意味希望でもある。もうそんな感情は捨ててしまいたいと思っている。でも上手くいかない。

普段はそこまで思わなくとも、ふとした瞬間、足元が崩れた瞬間にこの感情が止まらなくなる。

 

いつになったら、この束縛から逃れられるのだろうか。

わたしという人間

わたしは本が好きだ。どっぷりと嵌っているときは、ひたすら一人で読んでいたい。

鬱憤は文字にして晴らすのが好きだ。誰の都合を考える必要もないから。

運動は健康維持の最低限でいい。ましてや、誰かと一緒にやるスポーツは好まない。ひとりで黙々と自分が満足するレベルでやりたい。

お酒は好きだ。しかし、一緒に飲む人は選びたい。嫌いな人や心を開こうと思っていない相手と飲むときのお酒はまずくて仕方ない。酔うことなんでできやしない。

友達は少ない。両手もあれば足りる程度。狭く、深い付き合いが出来ればいいので、増やしたいと思ったことがない。

仕事は生きていくための手段。それ以上にもそれ以下にもならない。

表面上の人付き合いが苦手だ。必要性も感じないため、うまくいかない。

 

面倒で、理屈臭い人間と思われても仕方ないが、これがわたしである。

無理をすると自分に返ってくる。だから、同じ無理をするなら、貫き通す無理をしたい。

積読

わたしの部屋には本棚がない。

だが、たくさんの本が部屋のあちこちに積まれている。

 

わたしは本を読むことが好きだ。

物心つく頃から日記を書く習慣があり、自然と文章を読むことも好きになった。

ただ、昔は活字が並んでいる本はとても苦手だった。そんなスタートなのによくここまで好きになれたものだと思う。

 

なぜ、本を読むのか。

 

わたしは悩んでいるときに貪るように本を読む癖がある。自分にとって深刻な悩みだと、同じようなテーマ設定の本を読み漁る。答えが欲しいのだと思う。

 

わたしも人間なので、人相手に悩みを打ち明けたり愚痴を言う習慣がある。だが、同じくらいの頻度でこのように文字に起こしてストレスを解消したり、本に答えを求めたりする。

 

ただ、どちらも最後は自分で答えを決めなければならない。あくまでもそのための補助ツールに過ぎない。そんなことがわかってきたのは、割と最近のような気がする。

 

積読の本たちは、買ってからしばらく部屋で眠ることも多い。だが不思議なもので、どこかのタイミングで答えを求めて手に取る瞬間がくるのだ。

 

わたしはこの世に存在する本全てを読むことはできない。それは不幸なことではなく、自分を助けてくれるツールが無限にある、という安心感でもあるのかもしれない。